五行歌集「人を殺せとをしへしや」「昭和の群像」。いま多くの人に読んでいただきたい、次世代へのメッセージ。

桜出版

編集室より
  • 2011年01月02日
  • 啄木と「生死一如」

『生死一如』の無料ダウンロードサービスをご利用のため、初めて当ホームページをご訪問下さった方も多いと思います。そこで『なみだは重きものにしあるかな』の出版を知ったと思いますが、実はこの二つ、一見関係ないように見えて、大いに繋がっています。

その一つは、「曹洞宗」です。啄木の生まれた宝徳寺が曹洞宗寺院で、父一禎が曹洞宗僧侶、母かつ子の兄も曹洞宗僧侶であったことはよく知られています。父一禎が最初に住職として常光寺に着任したのが明治5年。以来、宝徳寺に移るまでの17、18年間、一禎は日ノ戸部落唯一の知識人として師弟の教育から田畑の開墾、道路の改修、部落の政治向きのことまで、顧問格として大事がられたと言われています。明治政府の廃仏毀釈の政策によって、多くの寺院や僧侶は経済的基盤を奪われ困窮しましたが、地方においてはまだまだ寺の威厳は守られていたということでしょう。また、啄木は戸籍では私生児とされていますが、これも妻帯を認めない寺族故のことです。当時はすでに曹洞宗においても僧侶の妻帯が認められていたにもかかわらず私生児としたことは、一禎や母方の寺の、僧侶としての修行の目標の高さ、格式の高さを示す事実とみることもできるかもしれません。
啄木はそういう寺族で、幼少よりその影響化にあったことは明らかですが、今年4月には百周忌を迎えるのに、寺族としての啄木作品への影響の研究は、まったくの白紙といってよい状態です。そして、父一禎を通じて啄木に中に通奏低音のように受け継がれたものこそが、その後の啄木の西欧受容のかたちを決めていったと考えられます。この解明がないかぎり、国民詩人としていまなお広く愛され続けている啄木の真の魅力には迫れないということです。
その意味で、『生死一如』を読んでから啄木をもう一度読み直してみると、あたらしい発見があるかもしれません。
いずれにしても、啄木における曹洞宗を含めたその基層の詩想の研究は、その緒についたばかりです。

次に関係あるのは「啄木と五行歌」に関することですが、長くなりましたので、次回にします。

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